「シリウス文明がやってくる」Kagari∞Kazukiより転載
2008年11月20日
闇の存在たちは、反面教師
一般的な普通の善人の方々にとって、「奇跡」という言葉や出来事、現象には、とても弱いのではないでしょうか。
だからこそ、悪霊や低級霊に憑依された一見、優しい風貌の反キリストのような存在に騙されやすいのです。
しかし、この悪霊や低級霊たちを、忌み嫌う存在として捉えるのであれば、私たちは、どこまでいっても、恐怖や不安から逃れられないでしょう。
一時、それらに目を塞いでいたとしても、私たちの中に以前、心や脳裏に観じていた恐怖や不安が存在し続ける限り、それらからは逃れられないでしょう。
つまり、悪霊や低級霊を引き寄せているのは、私たち自身だからです。
もちろん、そうではない、明らかな、悪霊や低級霊たちからの邪魔や攻撃というものは存在します。
例えば、私は、このブログの中で、悪霊や低級霊について、たびたび話題に出しますが、これは、かえって、それらを引き寄せていることになるのではないのか、闇に意識を集中させると、さらに、闇を引き寄せることになるのではないのか、と言われるかもしれません。
私にとっては、光も闇も、中立に観ています。
光も闇も、どちらも大事です。
光と闇のバランスを取り、融合させるということです。
闇は忌み嫌うものではなく、闇を無視して、光だけに集中していると、進化が止まるからです。
高次元の存在の中には、闇を排除したことによって、進化が止まってしまった存在もいます。
闇を知らずして、光だけを語ることは無理です。
私は、闇が好きですし、夜という静謐な空間も好きで、何よりも、闇の深淵さに落ち着きます。
これは、闇存在や、裏の闇社会が好きだという意味ではなく、善悪を超えた宇宙観としての本質的な闇という意味です。
悪霊や低級霊たちを忌み嫌うのではなく、反面教師として観るということです。
それらを忌み嫌ったり、排除したりという想いは、どこか、行き過ぎた潔癖症に似ているように想えます。
その忌み嫌ったり、排除したいという想いを抱いている、自分自身の心の内側にある、ネガティヴな想いのほうを、排除していかなければ、根本的な解決にはならないのではないでしょうか。
恐怖や不安は、絶対に無くならないものではなく、克服して無くしてゆくことが出来る概念です。
恐怖や不安に目をつぶっているのではなく、それらに、立ち向かっていく姿勢を持つ必要があります。
それらは、避けて通ることは出来ません。
それらを避けて、ただ、光、光と唱えていても、人生体験として、闇を通過していなければ、バランスを取るために、闇を体験する必要が出てきます。
悪霊や低級霊たちは、私たちの中にある心の闇を、映し出す反面教師として、教えてくれているはずです。
かつて、イエス・キリストさんが、「汝の敵を愛せよ」と言ったのは、光と闇は表裏一体であるからであり、外界に居るように見える敵とは、実は、自分自身の中に巣食っているものだからでしょう。
このようなことを前提とした上で、闇を一掃しようとか、闇を光に変えようということが伝えられていなければ、光を逃げの手段として使っているだけであり、真中がすっぽりと抜けてしまったような空虚さしか残らないような気がしてならないのです。
“ただ流れつくだけの未来じゃなくて 私にしか行けない道を行きたい”
“暗闇でしか見えない光があるから 今この場所から逃げ出すことはない”
KOKIA さんが唄う 『Sigh』 のPVです。
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