転載元:「シリウス文明がやってくる」 Kagari ∞ Kazuki
2008年10月23日
試練と、如何に向き合うか
霊的真理として、この地球上に生まれて来ることは、学ぶための学校に来ることであり、死という現象、もしくは、今回、アセンションする方々も、アセンションしない方々も、すべてにおいて、一旦、地球からの卒業ということになります。
私たちは、この地球上において、学びのためにいるのですから、楽しいことよりも、辛いことのほうが当然であるむしろ、試練、試練の連続であるという観方が強いのは致し方ありません。
しかし、そのような試練においても、捉え方によるのではないでしょうか。
他人から見ると、きつそうに、辛そうに想えることでも、当の本人にとっては、好き好んで行なっていることなので、それは、苦しみでも何でもなく、楽しいことである場合が多々あります。
いま、この時代は、地球の周波数の大幅な上昇により、昔のように、とんでもない苦行をする必要もなく、誰もが、超能力者、霊能者的な領域になることが、さほど困難ではないということが云えるのでしょう。
それは大幅な、霊的覚醒が可能になることであり、秘密や隠し事をし続けることのほうが、困難になって来ることでもあります。
子供の頃を思い出してみましょう。
生まれてから、物心がついたときから、あなたは、この世界には試練の連続が待っていると想われていたでしょうか。
そうではなく、見るもの、聞くもの、何もかもが、驚きの連続であり、何処か不思議の国に居るかのように想われていたのではないでしょうか。
人生に起こる様々な出来事を、そのような新鮮な驚きの目で捉えてみることを、思い出してみましょう、ということです。
何か、苦しくなければいけないのではないか、苦しまなければ、幸せは得られないのではないか、という固定観念や既成概念に縛られていますと、実際に、余計な苦しみを呼び込むことになるだけです。
結局、苦しみは、魂の純粋さを失ってしまった、歪んだ発想が、もたらすものだと云えるかもしれません。
物事に向き合うときに、苦しそうだと想って向き合うのか、何かひとつでも、楽しさを見出そうとして向き合うのかで、その後に受け取る数々のものに、雲泥の差が開いてくるでしょう。
しかし、関わりたくないもの、違和感や嫌悪感のあるものに、無理に頑張って固執し続ける必要もないでしょう。
どうしても必要な学びは、様々な形や環境を変えて、私たち一人ひとりに相応しいように、やって来るからです。
試練という言葉からは、苦しみや痛みが連想されるかもしれません。
しかし、その一見、辛そうな言葉の入り口を抜けてゆくと、想いもしなかった、喜びの道へと到達するかもしれないのです。
これも、“Blessing In Disguise”、不幸中の幸いです。
試練だと想われていたことの中に祝福がある、です。
“時が経ち失って気づく 今も残るほのかなぬくもりと言葉が全て見えた時涙がこぼれた”
天上智喜//CLIFF EDGE 『Here』 のPVです。
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